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生きている間に遺書を書くこと

『向田邦子の遺言』という本を読んだ。
 
この2年くらいで向田邦子をいくつか読み始めたのだが、なにか自分の気持ちに通じるところがあって好きになった。
文章はみずみずしくて、向田さんの目から見える世界やエッセイから読み取れる向田さんの性格や気質に惹かれるところもある。
 
あぁ、この気持ちわかるな、とうれしくなった。
いままで読んだ作家の中で、一番気持ちが通じるものがあったのは向田さんだ。
 
『向田邦子の遺言』自体は妹さんが書いたもの。遺言書は向田さんが書いたもの。
 
この本を読んだとき自分もいちど遺書を書いて見ようと思った。
死にたいわけじゃなくて、自分が死んだときに「誰に伝えたいか」・・・じゃないな、「私がこの世にいないことを、知ってほしい人は?」を考えた。
それを残しておきたいと思った。
そして残された人たち(主に近い友人や兄弟、子供がいれば子供)にお願いしたいな、それだけが死んだあとの願いだと思った。
 
日々の生活は小さいけれど確かにに時間が流れていくもので、自分の人生として積み重なっていく。その流れの中で、遺書を書く気になることはなかなかない。
 
 
自分だっていままでそんなこと考えたことなかった。
この本を読んだとき、海外に行こうとするという状況だったことが大きなキッカケだっただろう。
 
向田さんの遺書も海外旅行前に書かれている。向田さんはその後の飛行機事故で亡くなった。
事故の少ない現代ではあるが日本を離れるという似た境遇で本を読み、自分の中で共鳴が起きた。
 
 
さて、私がこの世界からいなくなっても世界は回り続けるけれど、私の不在を誰に知ってほしいだろう?
 
改めて考えると、その人たちは自分にとってソウルメイトのようなもの。たった2人だった。
多くても少なくてもその人たちは私の人生で大切な人たち。
世界を的に回してもその2人の味方になるし、大きな病気やけがをすれば何か力になりたいと思う2人。
 
 
たとえば職場の人には知らせなくていいかと言われれば、うん、知ってもらわなくてもいいかなと私は思う。
毎日一緒に働いているのに冷たいな、といわれても仕方ないし、それを気にしない私。
 
 
遺書を書くのは、自分にとって本当に大切な人は誰なのか?を見つめるプロセスのようなもの。
 
一度草案でもいいから書いてみるといい。
私はまだ自分の頭の中に、書きかけのままだ。
 
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